生命科学研究科 生命科学研究科 ― 東京大学大学院新領域創成科学研究科

平成16年度プレスクール論文賞論文

優秀賞: 白須 未香

課題: 「海馬の歯状回(Dentate Gyrus)では、大人になっても例外的に新しいニューロンが生まれており、古いニューロンと入れ替わっている。この現象は『成体脳のニューロン新生』と呼ばれ、ヒトの高齢者においても確認されている。この現象の生物学的意義について私見を述べなさい。」(細胞応答化学分野)

: 白須未香さんの論文は、きわめてよくかけている。文章力もあり、読み手をひきつける才能を感じさせる。研究事実についても、最新のものも含め非常によく調べてあり、読み応えがあった。「成体脳のニューロン新生の生物学的意義」という比較的難易度の高い課題に対しても、適切に意見が述べられてあり、非常に好感が持てる。特に、大脳新皮質での細胞新生について議論した部分に際立った斬新性が認められる。欲を言えば、私見を一人称で述べる部分がもう少し多くあれば、申し分のない論文になったように思う。繰り返しになるが、本論文は非常に完成度が高く、私は、プレスクール論文賞として推薦したい。(久恒助教授)

(受賞レポート)

 「人間の脳の細胞は、小学校低学年にピークに達した後は、減っていく一方だけれど、勉強して物事を覚えるほどに脳の神経回路が複雑になって、頭がよくなるんだよ。」まだ細胞や神経という言葉をしらなかったころに聞いたこの言葉は、今でもわたしの脳裏に残っているし、多分世間一般ではこれが常識なのだと思う。

20世紀後半、人の海馬領域が障害を受けると、障害前の数年間に起きた出来事の記憶は消失し、また新しい出来事はすべて覚えることができなくなるという症状が発表された。海馬と記憶力の関係についての研究が精力的に進む中、時を同じくして鳥やマウス・ラットなどで海馬の神経細胞が新生されているというそれまでの世間の常識をくつがえす報告が次々と出てきた。はじめ成体海馬歯状回領域へのBrdUやトリチウムの取り込みを細胞分裂の指標とした、組織を固定した状態での新生細胞の観察が行われた。その後、GFPを発現するレトロウイルスベクターの導入により生体海馬において確かに神経細胞新生が起きていることが証明された。さらには成熟神経細胞・神経前駆細胞・グリア細胞などの細胞表面をそれぞれ標識するマーカータンパクの発見、電気生理学的な手法により、新生細胞が成体海馬に存在する歯状回顆粒細胞と同様の機能的新生細胞になる可能性が証明されたのである。増えるどころか減る一方と思われていた脳の細胞の中に、大人になっても新生し機能する“神経細胞”が発見されたのだ。

脳というダイナミックな機能体の中で、この歯状回顆粒細胞は記憶の入り口細胞といっても言い過ぎではないだろう。目や耳から入る情報は、大脳新皮質で色や形など物理的性質を細かく分析されたのち、すぐに海馬中心にある歯状回に入り、海馬内神経細胞をリレーする。たとえば英単語を覚えるといった反復学習を行うと、文字や音の刺激が繰り返し海馬内のある神経細胞に伝達され、カルシウムイオン流入、続いて起こるタンパク質のリン酸化など一時的なシグナルにより一時的に神経回路が増強され、回路内によりインパルスが流れやすくなるLTPという現象が起きる。このようにして海馬で数週間記憶された情報は、その後再び大脳新皮質に送り返される。その後、皮質中の神経細胞の樹状突起伸長、シナプスの数や面積の増強が起こり長期安定した神経回路が作られ、一生続く固定された記憶となって貯蔵される。

次に記憶という共通のキーワードを通して海馬・大脳新皮質の働きを考える。海馬は、次々とやってくる新しい情報をいかに効率よく取り入れるかということが重要であり、海馬内の神経回路が永久に持続してしまっては、脳に次々と入ってくる新しい情報を取り入れていくことができない。つまり、海馬には情報が入ってくるとすぐに記憶し、しばらくたてば忘れてしまうような都合のいい仕組み、いうなれば細胞死と新生がよどみなく起こることが必要なのではないだろうか。最近、成体海馬の新生歯状回顆粒細胞の膜特性が成熟顆粒細胞とは異なり、より少ない刺激でより速い電位変化を起こし、シナプス可塑性の誘導が起こりやすいと報告された。つまり若い神経細胞は同一条件下の成熟神経細胞に比べてLTPが起こりやすいといえる。よって歯状回の新生顆粒細胞はシナプス可塑性を高める機構を持ち、これが新しい記憶の形成に重要な役割を果たしているという可能性もある。ただし、これとは逆に海馬全体の神経細胞数からすれば新生細胞の数はかなり少ないという報告もあるために、もうひとつの可能性として新生は恒常的に起こっているわけではなく普段は細胞を使いまわしており、なんらかの強いダメージを受けた神経細胞のみが置き換わることができるのかもしれない。

それに引き換え、大脳新皮質で細胞が新生されないのは、海馬よりも個々の神経細胞間の関係性が重要となっているからではないだろうか。つまり、神経細胞が分裂・増殖すると過去に蓄積された膨大な記憶体系が破壊され、昔の記憶に積み重ねるような回路形成あるいは、接続のやり直しができなくなってしまうと考えられる。

また記憶だけでなく、行動と新生細胞の関連についても興味深い知見がある。マウスは豊富な遊び道具や餌を与えた環境下ではよく運動し、空間記憶や学習能力の向上がみられると共に歯状回顆粒細胞の増殖も進むといわれる。逆に、やわらかい餌をあたえ運動をさせないと細胞新生能力が低下するそうである。近年Cre-LoxP系を用いたコンディショナルノックアウトマウスを用いて、新たに新生細胞と学習能力の関係をみる研究も進んでいる。時期特異的に顆粒細胞の新生が起こらない変異体マウスなどを作成することで新たなる展開が見られるだろう。

近年脳の大部分で神経幹細胞が存在し新生ニューロンを生み出しているという知見もあるが、それらの幹細胞は存在するが分裂を休止しているようであり、成体脳は見かけ上修復能が低い。また、大脳皮質の部分的な損傷やてんかんの後に、海馬での新生細胞の産生が起こることもわかっているが、これらの細胞は大脳の損傷部位に移行すると確かめられたわけではなく、またその細胞の性質に関しても未知な部分が多い。しかし海馬での新生細胞促進および大脳での新生細胞抑制の仕組みを知ることで、脳の計り知れない未知のメカニズムを解読する手がかりになるのかもしれない。

 

 

特別賞: 飯代 智之

課題: 「自分がウィルスの立場になったとき、宿主をどのように改変したら生き残りやすいか、既知の知見にとらわれず考察せよ。」(資源生物創成学分野)

: 本課題に対し、多くのレポートは「自分が少しでも多く増殖することではなく、宿主と共存共栄することを目指す」ほうが生き残りやすいという良いポイントを指摘していたが、さらに進んで「自分の宿主の競争力や環境適応性を高める」という戦略にまで言及したレポートは少なかった。本レポートは、動物ウイルスが宿主動物の脳に感染してその行動を改変するという奇想天外な戦略にまで言及しており、課題に対して良く勉強したことが伺える。さらに宿主が動かない植物ウイルスも、媒介昆虫の行動を制御することにより生き残りやすくなるはずだ、という独自のアイディアを提示していることなどから、賞の候補として推薦する。ただし、全体が長すぎ、表現が冗長であるなど文章としては充分に練られていない印象を受けたので、その点を改善すればもっと良くなったであろう。(宇垣教授)

(受賞レポート)

 ウィルスが宿主をどのように改変したら、生き残りやすいかというと問いかけに対して、まず、ウィルスとはどのようなものであろうか?ウィルスの定義するところは、「遺伝情報を担う核酸(DNAあるいはRNA)がタンパク質の外殻に包まれた微粒子」である。さらに、ウィルスは他の生物(宿主細胞)の代謝を借りなければ「自己複製(増殖)」を行えないために非生物として扱われる。では、この遺伝情報の粒子であるウィルスが、いかにすれば生き残っていけるのだろうか?

 宿主にとってウィルス感染が元で細胞レベルの傷害、個体レベルでの病気が発生することが生命に影響を与える厄介なこととなる。そのため、ウィルスの侵入・感染に抵抗するための防御機構が存在する。動物細胞では、免疫系によって防御を行っている。また、免疫系以外の防御機構にジーンサイレンシングがあげられる。ウィルスが生存するためには、宿主のもつ防御機構を突破して感染拡大をはかるため、宿主の防御機構を弱めるような改変が必要であり、事実そのような事例は報告されている。

 また、ある2種類のウィルスを同時にあるいは前後して、同じ宿主に感染させると、その2種が近縁のウィルスであるとき、一方のウィルスの増殖が抑制されることがある。これを一般には干渉効果とも言うが、いわゆるワクチンに応用される原理でもある。他の種よりも早く感染し宿主内で拡大する必要がある。自身の拡大のためだけに有利なように宿主の防御機構を改変し自身に対する抵抗性を弱め、他のウィルスに対する防御機構が弱まらないようにできればなんと良い事だろう。

 一口に感染といっても、特定のウィルスは特定の宿主にしか感染できないいわゆる「宿主特異性」を持っている。ウィルスは宿主細胞表層に存在する宿主由来の免疫機能や細胞間接着のための受容体を足場に、宿主細胞と接着して細胞内へ侵入する。このときに、ウィルスとその受容体が結合するか、しないかが感染における「特異性」となる。そして、他種の生物間はもちろん、同種であっても個体差によっても特異性が存在する。しかし、稀に種を超えてウィルスが感染することがある。これは、ウィルスが宿主内で増殖し高い頻度で変異し、世代を重ねることで新たな形へと生まれ変わり、他種の宿主の受容体と結合能を持ってしまうことにある。この特異性の問題を解決することができれば、ウィルスの生き残り有利となるだろう。だが、宿主に感染する前では、宿主の受容体を改変することは難しいと思える。

 また、植物ウィルスは宿主植物組織のクチクラ層や細胞壁を貫通して侵入できないために、その感染は植物組織にできた傷口からか、あるいは昆虫や線虫などの吸汁行動を介して侵入・感染を行っていることが大部分である。植物ウィルスは増殖ばかりか、感染までも他の生物の助けなしでは生き残れない。このために、宿主や媒介者、ウィルス自身に強力な改変が必要である。

 最も宿主を改変してしまうとすれば、ウィルスの遺伝情報が宿主に組み込まれて宿主が生存繁殖する?繧ナ一時的に有利な形質を発現するような共生関係が築ければ、面白いかもしれない。特に宿主あるいはウィルス媒介者の行動や性格をもウィルスが支配してしまうほどのものであればすごいことができるかもしれない。ウィルスが行動を支配するなんてSFの世界みたいなことを言ってはいけないと言われるかもしれない。しかし、それはありえる話かもしれないということを以下でふれたい。

近年の研究において行動や性格を支配する因子が周囲の環境以外に、遺伝子に支配されているという報告がいくつかある。例えば、動物の攻撃性に関与する遺伝子にモノアミンオキシゲナーゼA(MAOA)遺伝子がある。この遺伝子の活性を人工的になくしたマウスでは攻撃性が増すのである。さらに、この遺伝子のプロモーター領域にはある長さの繰り返し配列があり、その反復回数がMAOA遺伝子の発現量に影響を与えることが分かっている。ヒトでもこの遺伝子の影響が調べられている。反社会的行動を起こす要因に、幼児期の虐待経験という環境要因が挙げられるが、虐待経験のある全てヒトが行動を起こすわけではない。そこで、遺伝的要因を考えた結果、MAOA遺伝子の「活性が高いヒト」は虐待経験と反社会的行動の間に相関関係がなかったのに対して、「活性が低いヒト」にはその相関関係が見られた。ただし、環境要因がなければ、遺伝子の効果は認められないというのが難点だ。

 やっぱり、遺伝子情報を解してウィルスが宿主あるいは媒介者を支配することは無理なのだろうか。あきらめるのはまだ早い、遺伝子の変異が行動へ大きな影響をもたらす例が知られる。昆虫のキイロショウジョウバエの性行動を制御に関っているfruitlessという遺伝子座の上にsatori遺伝子がある。この遺伝子の変異があるオスはメスがいても、求愛も交尾行動を示さない(このために「悟り」と名付けられた)。さらに、面白いことに、オスがオスを追いかけてしまう行動が見られる。では、この遺伝子の変異がショウジョウバエにどのような理由で影響を及ぼしているかというと、satori遺伝子はハエの脳にある触覚葉糸球体というニューロンの性別を決める遺伝子である。その変異はその部位の性を転換し、「オス」は自身を「メス」と思い込んでしまう。最終的に、触覚から別の「オス」を認識し、オスがオスを追いかける奇妙な行動をとるとされる。このように、生殖という生物にとって、一番重要な部分でさえ、遺伝子によってあっさりと変わってしまう。やはり、行動に対する遺伝的要因が大きい事から、ウィルスが遺伝子を組み換え行動を支配するというのはありえるかもと少しは思える。しかし、遺伝子が行動を支配するとはある程度は納得できるが、ウィルスが遺伝子を改変して支配するのはどうかという方にもうひとつ事例を挙げたい。

 ミツバチの働き蜂は、外敵から巣を守るために針を刺す、この行動は実に命がけの行動である。ミツバチが外敵に針で攻撃すると、針は体表に刺さって抜け落ちる、そして、攻撃を行ったミツバチは死んでしまうのである。これが世に言う「蜂の一刺し」というやつである。命と引き換えに、巣を守るこの利他行動がどのように脳で制御されているか、その分子メカニズムの解明をテーマに研究を行っているグループが面白い発見をした。外敵に対して攻撃を行う働き蜂(攻撃蜂)がいる一方で、巣内部にいる働き蜂に対して外敵を近づけると逃避行動をとる(逃避蜂)。このことから、攻撃蜂と逃避蜂の脳内での遺伝子発現のパターンを比較した結果、攻撃蜂特異的な遺伝子が同定し、Kakugo(覚悟)と名付けられた。さらに、この遺伝子を解析していった結果、Kakugo RNAはウィルスのゲノムRNAであることが判明し、育児や蜜を集める働き蜂ではKakugo RNAは検出されなかった。つまりは、このことからウィルス感染と宿主行動の相関関係を初めて明らかにしたのである。ウィルスが感染することで、宿主の行動を改変することができれば、例えば、昆虫体内でも、植物でも増殖するウィルスで吸汁性の昆虫などに特定の植物を選んで吸汁行動を行わせて伝播させ、宿主が同種や他種との接触機会を増やして感染拡大がはることや生殖行動において特異な行動を起こして子孫をより多く残せる個体へ変異するなどウィルスの繁栄が望めるかもしれない。

 

審査委員: 藤原、落合、久恒、尾田、松本