生命科学研究科 生命科学研究科 ― 東京大学大学院新領域創成科学研究科

平成17年度プレスクール論文賞論文

優秀賞: 茂木 祐子

課題: 生命現象を進化的に見る(植物生存システム分野)

評: 私の課題は、卒論やこれからする修士論文研究に関して、そこで扱う「生命現象を進化的に見る」とどうなるかを考察しなさいというものです。茂木さんのレポートは、私の意図に反して少々具体性に欠けるものでしたが、文章は硬質で無駄がなく、仮説の提示と考察にも無理がありません。短いながら、読み応えもあります。「美」あるいは「美人」の進化を、「性淘汰」や「適応度」といった言葉で語ることは、これまでにもなかったわけではありません。しかし、茂木さんの場合、こうした進化学的な概念を自家薬籠中のものとしています。茂木さんの修士論文研究が進展して、より具体的な生命現象に、進化学的な考察が及ぶことを望みます。こうした期待感を込めて、本レポートを「プレスクール賞」に推薦します。(河野重行教授)

(受賞レポート)

 桜、紅葉、芸術作品…私たちの住む世界には美しいものが溢れている。美をめぐる感情はとても繊細で、それを表現できる芸術家をうらやましいと思うことがある。なぜ人間は「美しい」という感情を持つようになったのだろうか。美的感覚の背景には何らかの適応的意義と脳の進化があるはずで、進化生物学や神経生物学の視点から美を捉えることが重要だ。デズモンド・モリスやナポレオン・シャグノンらによると人間の分類好きが美的感覚の基礎になったという。脳を発達させ高度な知能を獲得した人間にとって、「環境に適応するということは、単に外界に存在する事象を丸暗記するだけでなく、雑多で多様に見える外界の事象の中にある種の秩序や規則性、つまり調和を見出すことでもある」という。その秩序や規則性(調和)に基づいて外界の事象を分類する。そして調和の 度合いを測る一つの指標として、美的感覚は進化したと考えるのである。この考えに立ってみると、芸術作品の美しさの秘密がわかる。美を紡ぎだす芸術家は「外界の事象の中に存在する調和」を捉えるのがうまい人なのだろう。美を感じる対象は様々だが、人間の容姿容貌は身近なものの一つである。特に人間の美は性淘汰に関係するものである。美的感情の進化からは逸脱するが人の美について考察したいと思う。人間の美を考えた場合もやはり先ほどの仮説が当てはまる。人類の祖先は顔を認識する脳内回路を発達させ、調和のとれた顔を美しいと思うように進化した。「女性の顔を平均すると美人になる」とはよく聞く話だが、これはまさにこの理論に合うものではないだろうか。では人の美醜が配偶者選択に影響するのはなぜか。人の容姿容貌の良さは、クジャクの雄の美しい羽と同様、それ自体生活にも生存競争にも役に立ちそうにないのだが。配偶者選択においては、子孫がより適応的になるような配偶者を選ぶことが重要だ。私は、美しい顔が良い遺伝子を持っていることの指標になっている可能性を考えた。実際、容姿容貌と病気に対する耐性に関係があるという説が提唱されている。これは羽や体色の良さが寄生虫への耐性と相関しているという魚類と鳥類の研究に基づくものである。さらに、美人選好は単に「皆が選ぶから自分も選ぶ」心理が無意識のうちに働くためではないかと考えた。つまり、遠い昔に美しい人を選ぶことは子孫の適応度の上昇に直接的な利益があったのだが、後にその利益がなくなったとしても美人選好自体が適応度の上昇につながるように進化したため、美人を好む形質が残ったのではないかと考えた。配偶者選考に関しては諸説あり、配偶相手の年齢を推定する指標になるという説や女性の生殖力の推定に関係があるという説、標準的な容貌を好むという説が考えられている。標準的な容貌を好むという説は、突然変異のほとんどが有害であり、非標準的な形質を持つ個体は非標準的な遺伝子を持っている可能性が高いので避けられるという考えによる。以上述べてきたことはいずれも推論にすぎず、絶対的な正解は得られていない。今後脳機能の解明が進むにつれて美を感じるメカニズムやその進化的意味が明らかとなるだろう。

 

 

特別賞: 名取 恒平

課題: 「臓器の大きさを決定するメカニズムにはどのような可能性が考えられるか。またその可能性を検証するには、どのような実験が考えられるか。」(細胞情報システム分野)

: 名取恒平さんの論文をプレスクール論文賞として推薦したい。この難しい課題について、自分の頭で考え、よく整理した形跡が伺える。現実的でかつ面白く書けている。箇条書きなのが論文としての体裁上やや惜しい所であるというコメントを他の先生からいただいたことを付記するが、文章の構成を含め良く書けている。(後藤由希子教授)

(受賞レポート)

 生物の各臓器は、原則的に細胞を構造及び機能単位として構成されている。細胞外構造物が果たす役割も少なからずあると思われるが、これも細胞の制御を受けて生成されるものである以上、このレポートでは臓器の形成、大きさの決定について、情報処理単位としての細胞を仮定して論じる。以下に細胞を単位として、臓器の大きさを決定することが出来ると考えられるメカニズムを列挙する。

1.物理的制約 培養細胞がシャーレ内で一面に広がると増殖を止める、という例は生物の教科書に見ることが出来るが、細胞が接触などの物理的刺激を感知して増殖を制御してさえいれば、例えば骨などの枠によって大きさを決定出来ると思われる。極端に考えれば、空間や生存に必須な酸素、栄養分などの制約によって死滅や増殖の停止が起こる場合にも、細胞数は制御されるとも言える。この場合は物理的制限を除去、あるいは強める実験を行うことで可能性を検証出来る。

2.前駆細胞数の制御 ある臓器に成長する運命を決定づけられた細胞の初期数と分裂回数が決定されていれば、最終的な臓器の大きさを決定することが出来る。この場合発生途中に特定の細胞を除去するなどの実験が考えられる。しかし、この方式だけでは、体を構成する細胞が著しく大きい生物の臓器の場合、初期数と分裂回数のいずれかがわずかに狂っただけで最終的な臓器の大きさに著しい影響が出る。また、寿命が長い生物であれば、臓器は生物が生きている間、構成している細胞が分裂によって次々に入れ替わっていくであろう。このターンオーバーも含めた制御を行うのはほぼ不可能であると考えられる。逆に細胞数が少なく、ターンオーバーのないような寿命のごく短い生物では、有効なメカニズムかもしれない。

3.分泌性因子の濃度による制御 個々の細胞が何らかの因子を分泌しつつその濃度を感知し、一定の濃度で増殖を停止することで、一定の細胞数を維持できる。逆に、限定された数の細胞などによって、一定の濃度で分泌される因子が生存を「許可」し、速やかに代謝されるような状況でも、その因子によって制御される細胞の数を一定にすることが出来ると考えられる。制御が分泌性因子によって行われているか否かは、組織培養などで明らかになると思われる。あるいは因子の含まれている可能性がある抽出液などの影響を見ることで判断できるであろう。

4.接触性の情報伝達などによる制御神経細胞のように接触性の情報伝達を行い、個々で情報に対して一種の処理を行うことで細胞数を調節できる可能性がある。例えるなら数字を1ずつ増やしながら次の人に伝えることで、人数を数えるようなシステムである。これも3と同じようにして接触が重要かそうでないかを判断する実験が可能である。

実際の臓器形成においては、単純な細胞数だけを制御するのではなく、形態も重要であるし、臓器が複数の細胞種で構成されている場合はその細胞数や配置の制御も必要である。また生物体としては、他の臓器との協調も欠かせないであろう。とすれば、細胞間で情報を伝達しながら、臓器や組織内である程度自律的に制御を行い、外部からの情報による制御も行うメカニズムを必要とすると考えられる。よって実際には、上述した単純なメカニズムを組み合わせた、複合的なメカニズムがあると思われる。

 

 

特別賞: 厚海 奈穂

課題: 「がんの発生・進展過程とガン微小環境の関わりについて考察し、新しい治療法の可能性について述べよ」(がん先端生命科学)

: がん細胞・組織は極めて旺盛な増殖能を持ったものと捉えられている。多くの場合はこの考え方で正しいのであろうが、ヒトのがんでたった1cmにも満たない腫瘍の内に切除されても、残念ながらあっと言う間に転移をし、死に至らしめるものがある。この様な例を考えたとき、がんを、極めて高い適応性を獲得した細胞集団と捉えることも出来る。この性質はどこから出てくるのか?多くのがん細胞で遺伝子の不安定性が確認されている。おそらくこの不安定性を駆動力にして、微小環境を選択圧とした急激な進化が起こっているのであろう。厚海奈穂さんの論文は、この不思議な仕掛けに十分な考察を加え、更にそこからがんを退治するところまで想像力を働かせている。研究は、好奇心と、論理力と、想像力を駆動力と武器としたものともいえる。少し論理的に甘いと感じるところはあるが、優れた論文であり受賞に値する。(江角浩安教授)

(受賞レポート)

 がんに罹ると、特に末期においては物を食べることが出来なくなり、目に見えて弱っていってしまう。しかしこの時、体全体は低栄養でありながら、がんの進展が止まることはない。この事実は、「がんがその部位においては周囲の微小環境を利用してうまく生き延びている、言いかえれば環境を利用することのできるような機構を獲得しているがんが生き残っている」という考えの一つの根拠となるであろう。またこれは、「ある原発巣から他の部位に転移した場合というのは、もともと転移先で生き残れるような環境に転移したか、或いは転移した後に周囲の微小環境を利用出来た場所でのみがんが進展し続けた結果である」という考えにも発展する。ある種のがんは臓器特異的に転移することが知られている。転移する場所に何らかのパターンが見られるという事実は、その場所でがんが生き残りやすい理由があることを意味するとともに、各臓器における環境ががん進展に関わるメカニズムはそれぞれ異なり、がんの側からしても、 様々な環境を好むがんが存在しているためにそれらの性質を一括りには出来ないということが示唆される。がんの発生において、突然大量のがん細胞が出現するわけではない。がん化した細胞が徐々に分裂、増殖していくのである。従ってがん発生のごく初期の段階では、がん化した細胞の周囲の環境は正常な場合のものと同じかほとんど変わらないものであるはずである。正常な場合と同じ場合、がんの発生及び進展は、その臓器の正常な機能をうまく利用する形で起こっていると解釈するべきであるし、正常な環境とは異なった環境でがんの発生が起こる場合は、最初のがん化細胞が生存して、その後増殖を続けるためには環境の変化が必須であるという解釈になるのであろう。だが、がんはある程度進展してからでないと観察するのが困難である以上、その発生の瞬間を扱うこともまた困難であり、がん細胞発生への微小環境の関わりの解明は難題であるといえる。前述した内容から、がんの発生及び進展、転移の機構を解明し治療に役立てていくためには、臓器特異的な微小環境の解明と、臓器特異的な転移機構の解明が望まれるといえる。その為の入り口としては、あるがんの臨床学的な知見(例えばがんの周囲に血管が多く新生している、ある種の間葉系前駆細胞が多く見られるといった点)、原発巣と転移した先との環境における共通点(元来、共通の分子を多く産生する臓器であるといった点)などから、これらの機構をがんがうまく利用しているのではないかと仮説を立て、検証していくことになるであろう。実際の治療においては、例えば検証の結果、がんが周囲の間質からシグナルを受け取り、それが進展に寄与していることが解明されたならば、そのシグナルを阻害する分子やシグナル分子に対する抗体を薬として投与する方法が考えられる。がん細胞がそのシグナルを受け取る受容体を発現しているのならば、シグナル分子と拮抗して受容体に結合する分子を投与する方法も考えられる。しかし、このシグナル伝達機構は、がん以外の正常な箇所においても作用しているものがほとんどであり、薬として投与した場合に正常組織にも作用すると何らかの副作用が生じてしまうという問題点がある。がんの部位だけに特異的に薬を届けることが出来れば、この問題は解決する。がんの患部のpHが正常組織と大きく異なるのならば、そのpHにおいて壊れるミセルに薬を包んで注射するなど、がん周囲の環境の性質を生かすことによってがん部位特異的に薬を投与することが出来るかもしれない。がん細胞上に発現しているレセプターに対するリガンドを持ち、がん細胞に結合したのちに壊れるといったミセルを作る方法も考えられる。がん周囲の微小環境の解明が、効果的な薬の投与の足がかりになりうる。また、臓器特異的ながんの進展および転移の解明がなされて治療法が確立されれば、初期の段階において、そのがんに、より効果があると思われる治療を行うことが出来るとともに、転移が認められないうちからでもその予防のための治療が可能になると考えられる。

 

審査委員: 松本、久恒、小嶋、鈴木、尾田